ゆるキャン△、その孤独に祝福を!

ゆるキャン△、主人公がヒロインを孤独から救う話ではなさそうです。そこが良いなって」
「どういうこと?」
「人懐こく積極的な主人公のなでしこが、ヒロインのソロキャン少女志摩リンに出会い、主人公から絡んでいくうちに2人は仲良くなっていく、というのが、ゆるキャン△のひとつの話筋なのですが」
「こういう構図は多くの場合、孤独を愛するヒロインは人を拒絶しており、なぜかというと家庭か友達関係に問題を抱えているからで、主人公はヒロインの拒絶をものともせずにウザ絡みし、そのうちヒロインの方もほだされていく、という話になりがちなのですが」
「なりがちか? 本当に?」
「そういうことにしといてください。
志摩リンが孤独をエンジョイしており、孤独を否定していないところに、私はゆるキャン△は新しいし良いなと感じています。
まず、志摩リンは家庭環境にも友達関係にも、問題を抱えていない。女の子の一人旅を心配しつつ許してくれる家庭と、友達関係が広がるよう働きかける思いやりがありつつ次回以降は一人で居たい意思を尊重もしてくれる良く出来た友達に囲まれている」
「精神的肉体的に安全で安定した環境があって初めて、ソロキャンは本当に志摩リンにとっての『楽しい趣味』たりえるのです。
もし志摩リンが人間関係に問題を抱えていれば、ソロキャンは趣味ではなく、人との関わりを断つための方便になってしまう。それでは、本当にキャンプ自体が自体が好きなのか疑わしい」
「野外活動サークルに誘われた時に志摩リンが嫌な顔をするのは、ソロキャンが邪魔されることを危惧したからで、ソロキャンが本当に好きであることを示すエピソードになっています。また、その後すぐにスマホで頻繁にやり取りするようになるところなどから、人間関係やなでしこを嫌っているわけではないことが解かる。一方で、和解後も野外活動サークルで一緒にキャンプするようになるのではなく、ソロで出かけている。
王道の話し筋では、主人公の居ない一人旅でコテンパンな目にあって後悔し、次回以降は大人しく主人公のパーティに加わる、みたいな流れになるのですが、ゆるキャン△はそういうことはしない」

 

「孤独から救う・救われる話は確かに王道です。私もそういうの大好物です。
しかし一方で、友情という楽園にたどり着くストーリーの快楽性を強めるために、物語は孤独を抜け出すべき地獄として描きすぎなのではないか、我々は孤独を貶めすぎているのではないか、孤独とはもっと自由で救われている側面が有るものなのではないか?
孤独を腐すことはやめるべきです。孤独は苦しいですが、それだけではない。孤独は楽しくもあり、たまには価値あるものを生み出す。私たちももっと孤独を楽しむことを知るべきです」
ゆるキャン△ってそういう重い話なの?」
「いえ全然」